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「死を超えて」

聖書 ルカ8章40-42,49-56節


1.あきらめてからが始まり

今朝は会堂司ヤイロとその娘の癒やしです。「会堂司(かいどうつかさ)」というのは、ユダヤ教の会堂の管理人のことです。会堂の建物の維持管理をしたり、礼拝での聖書の朗読箇所を決めたり、礼拝の司式をしたりする人たちでした。そんな「会堂司の一人でヤイロという人」が、主イエスの「足もとにひれ伏し」、そして、「私の小さい娘が死にかけています」と主イエスに助けを求めました。


42節を見てみると、ヤイロの娘は「十二歳ぐらい」だったことが分かります。当時の世界では、産まれる前に死んでしまう赤ちゃんは今よりもたくさんいましたし、無事に生まれたとしても、半分以上の子どもが10代で亡くなっていたそうです。それゆえ、十二歳まで育ち、死なずに生き続けてくれたことは、父親であるヤイロにとっては本当に感謝なことでした。そんな大切な娘が、今にも死にそうになっているのです。


主イエスは、ヤイロの願いを聞いて出かけます。ところが、ヤイロの家に向かう道の途中で、主イエスが突然立ち止まり、しばらくそこで時間を使われます。それが先々回の長血の女の出来事でした。主イエスに頼んだ順番ではヤイロの娘が先で、長血の女は後になります。しかし、先に癒されたのは後に申し出た女性でした。ヤイロからしてみれば、「イエスさま、早くしてください!」

「なんで立ち止まるのですか!」と叫びたかったでしょう。「私の娘は今にも死にそうです!急いでください!もう間に合わないかも!」と叫んで手を引っ張りたい気持ちだったかもしれません。


このように焦ってしまう気持ちは、私たちの中にもあるかもしれません。「イエスさま、早く私の祈りを聞いてください!間に合わなくなる前に!」。しかし、私たちが焦っているとしても、主イエスが焦っているとは限りません。私たちが急ぎたくなったとしても、主イエスが急いでおられるとわけではないのです。主イエスは、私たちが良いと思うタイミングではなく、主イエスご自身が良いと思われるタイミングで働かれるからです。その時、ヤイロの家から使いの者がやって来て「お嬢さんは亡くなりました」(49節)と告げます。


ヤイロの不安は的中してしまいます。主イエスが立ち止まっている間に、娘は死んでしまった。もう取り返しがつきません。「死にかけて」いたときなら、まだ望みがあったのに、もう間に合いわない。終わってしまったのです。すべてが手遅れだと判断したとき、使いの人から出てきたのは、あきらめの良い言葉でした。

「もう、先生を煩わすことがありません」(49節)。

私たちの中にも、こういう物分かりの良い言葉があるかもしれません。

まだ希望が持てるような状況なら、主イエスに必死に祈ります。「主よ、助けてください」「この病気を治してください」「あの問題を解決してください」。しかし手遅れだと思ったら、それ以上祈らずにあきらめてしまいます。「これ以上お祈りしたって、迷惑をかけるだけ。今さら来てもらっても仕方がない」。しかし、物語はここから続くばかりか、ここから始まるのです。


2.恐れないで

50節に「これを聞いて、イエスは答えられた」とあります。

実は、49節のセリフは、会堂司の家にいた人が、会堂司であるヤイロに向けて言った言葉でした。それを、主イエスは聞かれたのです。これは、直接主イエスに言った言葉ではありませんでした。「お嬢さん(=ヤイロの子)は亡くなりました。もう先生(=イエスさま)を煩わすことはありません」という内容だからです。


ヤイロと家の人の会話に、主イエスは入っていませんでした。つまり、主イエスを抜きにして、自分たちだけで、「お嬢さんは亡くなりました」とか、「間に合いませんでした」とか、「これ以上、イエスさまの邪魔をしないようにしましょう」などと話し合っていたことになります。この状況は、重要なことを私たちにも教えてくれます。私たちは自分の身の回りに起こった出来事と結果を、人間だけで観察し、説明し、納得し、結論付けようとするということです。そこで、「イエスさまならきっと何とかしてくださる」「神による別の道があるはずだ」とはなかなか考えられません。それよりも、何か起こった時点であきらめをつけ、区切りを付けてしまいます。そうして、主イエスを抜きにして、人間同士の会話だけで完結させてしまうことが往々にしてあります。あるいは完結できず、夜眠るときにも「あの仕事がまだ終わっていない」「あの人に言われたことが頭から離れない」と自分だけで考え続けることがあります。


しかし、そんな私たちの言葉を、主イエスは「聞いて」おられます。私たちが主イエスを締め出し、人間だけで話し合い、悩み、あきらめてしまうときにも、主イエスはそばにいて聞いていてくださり、「大丈夫だよ。恐れないで、ただ信じていなさい」と言ってくださるのです。


主イエスは会話を「聞いて」おられ、あきらめに満ちた彼らの会話に「答えて」くださいました。主イエスは、「あなたたちが失望しているのは分かります。あきらめたくなる気持ちも分かります。けれども、わたしがともにいるではありませんか。恐れないで、ただ信じていなさい」と言って、ヤイロの家へと再び歩き始めてくださるのです。「あなたたちがあきらめるなら、わたしだって助けてあげないよ」と突き放したりはせず、「あなたがあきらめたとしても、わたしはあなたの家に行くよ」と言ってくださるのです。 

主イエスを信じるのであれば、「あきらめたら終わり」ではなく、「あきらめてからが始まり」です!! たとえ私たちが「あきらめた」としても、主イエスは私たちの「あきらめ」を知った上で、導こうと手を差し伸べてくださいます。たとえ私たちの信仰が無くなってしまったように思えるときでも、たとえ私たちが祈れなくなってしまったとしても、主イエスは私たちのつぶやきを聞き、「大丈夫。恐れないで、信じていなさい」と言ってくださるのです。主イエスのこの声が聞こえているなら、私たちは聞き取り、従うべきです。


3. 起きなさい

主イエスが「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです」(52節)と言ったのを聞いて、「人々は・・・イエスをあざ笑(いました)」(53節)。私たちは、いかがでしょうか。はっきり口や態度には出さないとしても、心のどこかで主イエスをバカにしたり、あざ笑うような思いがあるかもしれません。主イエスが「恐れないで、ただ信じていなさい」と言っても、「いやいや、さすがにこの状況はイエスさまでももう無理でしょ」と、あざ笑っていないでしょうか。


しかし主イエスは、そんな人々のあざ笑いをもろともせず、ヤイロの娘の手を取られます。たとえ人間たちに笑われても、主イエスはご自分の計画を変えようとはなさらないのです。そして、「子よ、起きなさい」と叫ばれました。すると、少女はただちに起き上がりました。

それを見た両親は驚きますが、主イエスは少女に食べ物を与えるように言われます。以前の、健康であったときの日常生活が戻ってきました。主イエスは、死んでいた少女を、みことば一つでよみがえらせました。


人間にとって、死は全ての終わりです。死んでしまえば、もう二度と起き上がることはできません。しかし、私たちがもう死んだ、もう終わりだと思ったとしても、主イエスにあれば、そこから起き上がることができます。私たちが自分の力では起き上がれなくなったとしても、主イエスが手を取ってくださるなら、私たちはもう一度起き上がることができるのです。この出来事が教えているのは、そういうことです。私たちも、主イエスのことばをあざ笑うのではなく、ただ信じて素晴らしい出来事を味わうように招かれています。


私たちの人生や日常は複雑です。「どうしても起き上がれない」「もう気力がない」というときも訪れます。体調を崩して寝込むこともあれば、気持ちが落ち込み、布団から出られないこともあります。「学校に行かないと」「仕事に行かないと」「家事をしないと」と思っても、どうしても心身が言うことを聞いてくれない。そんな私たちの手を、主イエスは取ってくださいます。「恐れないで、ただ信じていなさい」と言ってくださる主イエスがおられます。自分であきらめなくてよい、と励ましてくださいます。

自分の力で起き上がる必要はありません。自分であきらめをつける必要もありません。ただ、主イエスに手を取っていただきましょう。人生に入っていただきましょう。「起き上がれない自分」にではなく、「起き上がらせてくださるイエスさま」に目を向けてまいりたいと願います。自分を打ち叩いて崩れてしまうのではなく、イエス・キリストを迎えて働いていただく新しい生き方を始めましょう。死を超えて力を及ぼすことのできる主イエスに頼ることは、自分や世の知恵、力に頼るよりもはるかに賢い道です。 ■


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