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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「目を主に、手を主に」

更新日:2023年4月7日


聖書 エペソ人への手紙6章1~9節

先週は夫と妻への命令箇所を学びました。そこで教えられている「夫に従う」「妻を愛する」という命令は、お互いがそうしなさいと命令し合ったりできていないと指摘し合ったりするためではありませんでした。妻は夫に従うことをキリストに従うことによって果たしていきます。夫は妻を愛することをキリストに自分のからだを献げることによって果たしていきます。それらの命令はお互いに対して責任を負っているのではなく、キリストに仕え、キリストを愛するものです。それゆえ、これらは夫婦関係でない者に対しても語られ、祈りに向かわされるものになります。聖書はそれぞれの個所を特定の人に語られるのではなく、すべての個所がすべての人に語られています。それで、毎週私たちは、それぞれの状況や環境や年齢などが違っても「ともにみことばを聴く」共同体です。食事にたとえれば、幼子も成人も同じ食事をしています。それはとてもユニークなことです。そして、不思議なことに同じ食事をもってそれぞれ一人ひとりがちゃんと養われます。今朝も「子ども」とか「奴隷」とか「主人」に向けて語られ始めていますが、神さまがここにおられるお一人おひとりに、この私に語ってくださるところから始めてまいりましょう。


Ⅰ. 主の権威に従う(1-3節)

  1. 子どもたちよ

子どもたちへの命令は、十戒に基づいてなされています。十戒は、神の似姿(似たもの)、神のかたちとして創造された私たち本来の姿、生き方に導いてくれるものです。「真理なんてどこにもない」「価値観なんて人それぞれ」「思いのまま生きればいい」「神さまなんて束縛するだけだよ」などという声を聞きます。そんな世界に身を置いている者として、まことの神から発せられた私たちへのことばの集まりが十戒です。それは、人の顔色を見て生きることからの解放であり、揺るがない指針を持って生きられることの自信にもつながります。真理は私たちを自由にしてくれます。あなたに真の自由をもたらしてくれるものとして十戒を、この神のことばを聞きましょう。


「あなたの父と母を敬え」(出エジプト2012,申命記5:16)。これが「第一の戒めです」(エペソ6:2)と紹介されているのは興味深いですね。なぜなら十戒の第一は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト20:3)だからです。この十戒は「二枚の石の板」に神の指によって刻まれました(例:出エジプト31:18、申命記4:13)。それぞれ表裏に文字が刻まれていたようです。そして、第一戒から第四戒が神に対することば、第五戒から第十戒までが隣人に対する戒めです。今朝の「あなたの父と母を敬え」は第五戒になりますが、同時に隣人に対する戒めの最初に出てきます。二枚の石の板の一枚目には神に対する戒めが、二枚目には隣人に対する戒めが刻まれている。それで、ここでも「第一の戒め」として紹介されているものと考えられています。こうしたことは、聖書を整理して理解するためにも覚えやすいので、役立ちますね。


子はその両親に従う。父の言うことだけ聞いて、母にはそうではない。またその逆もいけません。それは「正しいこと(義)」と明言しています。実は、この前に妻は夫に従いなさいとありましたが、これらの「従う」には別々の語があてられています。妻が夫に従うのは、意思や応答をもって従う(例「神の義に従わなかった」(ローマ10:3)、「従順」(テトス2:5))ことを強調し、子が両親に従うのは、有無を言わず・意義を唱えずただ従う(「風や湖までが言うことを聞く」(マタイ8:27)ことを強調する語が使用されています。

「従う」の原語の構造は「下で+聞く」という語です。子は、その両親に権威があることを認め、その言うことにただ聞き従うことが求められています。これも普段の父と母を見ていたら到底できない、反発したくなることですが「主にあって」そのことをしなさいと教えています。これは、両親を置かれたのが主なる神によるものであり、その両親からの戒め、教育を主からのものとして受け取り、従うものだという流れになっています。


両親が優しいからでも、従いやすいから、今日は気持ちよく従ってあげてもいい気分だからではありません。神のことばがこのように教えるには理由があります。それは両親=夫婦がこの世界の基礎だからです。神さまははじめから人を男と女とに創造され、夫婦の秩序を備えられました。それによって生めよ、増えよ、地を従わせよという人の務めをなすことができるからです。隣人との関係を考える上で、まず覚えなければならないのは学校や職場、親族や家族ではなく夫婦であり、両親なのです。誰もが親になるわけではありません。子を持たない夫婦もいます。しかし、私たちは必ず父と母から生まれたものです。これはすべての人に例外がありません。あなたを生んだ一組の夫婦(婚姻関係がなかったとしても)がいること。私たちはみな、そうです。これは選ぶことも、選ばないこともできない事実です。一人では生まれることもなかったあなたが、自分を生まれさせた、生を注いだ存在に最大の敬意と服従を求めるのがこの戒めです。


親を見ていたり、自分の境遇を考えると、両親に従うなんて納得できないこともあります。それは、自分が子どもとして幼い年ごろだけでなく、思春期になればまず反発を覚え、成人になれば自分がこのようになってしまったのは親のせいだと恨めしく思い、親が年老いれば介護のことで心も頭も経済的にもいっぱいいっぱいになり重荷になったりするものです。それでもこのみことばは、変わらずあなたに語りかけます。「あなたの両親に従い、敬いなさい」と。これによって、自分のことだけを考えて過ごしていた身勝手さ(自分だけでは生まれることもなく、生きられもしないのに)、わずらわしいものをすぐに除外したくなる横暴さ、介護の支援を止めてしまおうかという復讐心と向き合わされます。そして、自分の中に罪の太い根っこを持っていることに気づき、無力さを告白し、罪の赦しとこのことに従って行くことの尊さにあこがれ、一つでもなすことができるよう力を求めます。そして、もがきつつも、自分の罪と戦い、神のことばに従って行くその姿こそ、主が求めておられるものです。それで「主にあって自分の両親に従いなさい」と語ってくださいます。


  2. その土地で長く生きる

さらに、この第五戒だけは「そうすれば~」(エペソ6:3)と約束が続く唯一の戒めとなっています。他の戒めは単に戒めだけか、あるいは罰則(主の御名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない)が伴います。その意味でも「第一(はじめ)の戒め」として覚えられてきたのがこの「あなたの父と母を敬え」でした。両親に従い、父と母を敬うことに伴う約束は「そうすればその土地であなたの日々は長く続く」(エペソ6:3)というものです。一読すると、これは地上で長生きをして幸せに過ごすというように思えますが、それだけではありません。この十戒を最初に聞いたイスラエルの民はいかがだったでしょうか。彼らは出エジプトの救いの経験をしたのちに、これらの十戒を授かりました。彼らはそのとき「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするため」(出エジプト20:12)と言われています。「主が与えようとしているその土地」とは約束の地でした。この戒めと約束を聞いたイスラエルの民は、全員(その世代の者)が荒野で死にました。モーセもその約束の地を目には見るが、入ることを許されないまま地上の生涯を終えました(申命記32:52等)。約束の地であるカナンの地を偵察に行った族長のうち、ヨセフとカレブ以外の者はみな、敵の大きく強いのを見て恐れてしまい、それ以上進む心をなくしてしまった不信仰のゆえです。攻め取りに行こうといったヨセフとカレブを殺そうとしたほど、主の約束を信じることができないでいました。実に「従い通す」(民数記14:24)ことができなかった民は一人残らず約束の地に入ることはできませんでした。


このことを見るとき、私たちの「その土地であなたの日々は長く続く」という約束が決して地上で長生きすることとは違うことが分かります。「主が与えようとしている土地」とは、永遠に神を喜ぶことになる天の御国だからです。それは両親に従う、父と母を敬うという、もっとも身近な存在に最大の敬意を払い続け、従うことをやめないことから始まります。両親に従い続けることはその先すべての隣人関係に広がっていきます。両親、家族、兄弟姉妹、親族、隣近所、学校、交友関係、仕事場、教会・・・それはどこかの関係にだけ従うことではなく、自らの親に従い、敬うことからしか始められません。そのために苦しみことがあります。理解できないこと、納得できないこともあります。それでも主に対する不信仰は「与えようとしておられる土地」に入ることの妨げとなります。私たちは、天の御国を目指して歩む者です。それを両親から、身近な存在から、このみことばから、この礼拝から始めていきます。そして、父たち(母たち)は子どもにとって最高の教材は聖書であることを信じ「主の教育と訓戒によって育て」(6:4)ます。これが「子どもたちを怒らせてはいけません」に続いているのに留意すべきです。子を怒らせないために甘やかすのではなく、主の教育を軸に接していく。新約聖書時代、ローマ社会における父親の権限はとてつもなく強大なものでした。自分の子を奴隷として売り飛ばすのも、給料を与えないで働かせることも、死に追いやっても親であれば罪に問われない絶大な権威があったそうです(Bruce,p.246)。その社会において、父親の好き勝手にではなく、聖書によって子を教育し、導きなさいとここで告げています。このインパクトは相当なものでした。父親も自分の権威をふりかざさず、主の前に一つの小さな器となって、みことばどおりに子にすることを求められるからです。家庭が主のみことばによって治められていくことが、子にも親にも促されています。家庭でクリスチャンが自分だけという場合には、自らのうちにみことばの光をともしつつ、その家庭に主がすでに働いておられることに感謝しつつ、仕えてまいりましょう。



Ⅱ. 主のしもべとなる(5-7節)

  1. 働く者たちへ

5節は「奴隷たちよ」で始まります。この当時、多くの人々が奴隷と呼ばれていたそうです。奴隷でも家庭を持ち、財産を築き、相続をし、独立ができ、医師、歴史家、教師など、現代では奴隷と呼ぶのが考えられない立場を持っていました。そのことを考えると、ここの「奴隷たちよ」は「働く者たちよ」と置き換えても差し支えありません(むしろ、そうでないと真意が見えにくくなります)。奴隷、働く者に共通するのは「自分よりも大きな権威を持つ者の下で働く」ことです。これは従業員・会社員であれば上司や組織になりますし、フリーや社長の立場であれば取引先や発注者になります。世界中を見ても自分の意のままに働ける環境にいる人は多くはありません。


働く者に対しても「地上の主人に従いなさい」(6:5)と教え、これは今朝の1節で見た子どもたちが両親に従うのと同じ語です。つまり、有無を言わさず上の権力に対して従うことが働く者に命じられていることになります。この「奴隷」が同じ言葉で出てくるのが6節で、そこでは「キリストのしもべ」と訳されています。そして、これらの言葉が置き換え可能なように、目に見える主人に従うことは、目に見えないキリストに従うことだと言うことができます。「キリストに従うように・・・地上の主人に従いなさい」(6:5)とある通りです。


  2. 目に見える主人に仕える

神なし自分ではどうしようもできない、ひっくり返すこともできない上の権威に対して、まず「従う」こと。これは主が間髪入れずに要求していることです。先「主のみこころが何であるかを悟りなさい」(5:17)と語られてきた流れの中にこのことがあることもしっかり受け止めたいと思うのです。そして、これは今朝の6章でも親を選べずに生まれてきた子がその親にまず従うことと同じです。職場や日常において自らよりも高い地位にある人に対して、はじめから反抗的な目や軽んじて接するのでなく、まず(とりま)従う。それははっきりとした主のみこころとして記されています。


さらにその従い方にまで注意書きがあります。「恐れおののいて真心から」(5節)、「うわべだけの仕え方ではなく」(6節)、「喜んで」(7節)と私たちの心を見透かしたように重ねて注意しています。言われたことをやればいいだけではない、しぶしぶでも従っていればいい。そんな逃げ道をふさぐように「真心から」「喜んで」仕えていなければなりません。それは、主に対する誠実をどこまでも貫くことになるからです。上司に対してあざ笑いながら従うのは、主を軽蔑することです。権威に対して反発することは、主に手をふりかざす、砂をかけることです。


そして、唯一ある例外は、あなたの信仰を捨てさせようと権力を振りかざされた場合には、全力で抵抗しなければなりません。会社組織におけるルールを守りなさいと迫られるのと、あなたのキリストへの信仰を捨てて働きなさいと命じられるのとでは違うからです。前者には従わなければなりませんが、後者に従ってはなりません。主を否定させる状況には断固として抵抗します。


制度や体制に対して、聖書は柔軟です。神への信仰を保ちつつ、権力に従うことを教えています。主イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)と教えられました。決して「カエサルは主です」とは言われませんでしたが、「神を第一にして、カエサルのことはないがしろにしろ」ともおっしゃいませんでした。また、「奴隷たちよ」で始まるこの個所も9節には「主人たちよ」と続いています。それは、「奴隷と主人」をひとまとめにしていて、決定的に区別していないからです。神の国にあっては奴隷であっても、主人であっても一つになれるからです。実に、オネシモとピレモンがそうでした。彼らは主従制度を解消するという和解方法ではなく、互いにクリスチャンとして和解することを示しています。それは、この地上でも天の御国でも大切なことは、奴隷か主人か、あるいは地上ですべての立場を平等にすることや貧富の差がない社会実現よりも大切な、本質的なことがあるからです。本質とは、すべての人が神と出会い、罪を悔い改め、キリストの十字架を知り、罪の赦しと永遠のいのちを受け取ることだからです。奴隷であっても、主人であっても、まずキリストのものになること。それが本丸であり、本命です。キリストを主とし、キリストに従う者が、真心から喜んで人にも従うことができるようにしてくださいます。人や制度や立場を見ると我慢できなくなることがたくさんあるかもしれません。それでも、みこころは主と主の立てた制度、主の置かれた権威に従うことです。主を見て従うしもべとさせていただきたいと願います。


 Ⅲ. 天に宝をつむ(8-9節)

  1. 報いを受ける(未来形)

8節に仕えることへの理由が述べられています。「奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主から報いをうけることを、あなたがたは知っています」(8節)。「報い」を覚えて従いなさい、ということです。報いのためにするのは次元が低いとか、下心があっては純粋じゃないと考えてしまいそうです。しかし、私たちが信じてよいお方は「報いを与えてくださるお方」です。マタイ25章には有名なタラントのたとえ話があります。そこでは良い忠実なしもべをしっかりと褒め、ちゃんと報いてくださる主人を神にたとえられています。またその後に「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と地上でなしたことの良いわざの一つひとつが、主イエスに向けてなされたこととして受け取られ、覚えられています。また黙示録でも「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える」(黙示録2:10)と書き送っています。


これは、私たちが本当に天の宝を目指してしっかり地上で歩むことを教える方位磁石です。主は、何の意味のなしに私たちが従うこと、働くこと、何も教えないで力を注ぐことをさせるお方ではありません。私たちが正しいことに、真に意味があることに導くお方です。「主からのその報いを受ける」とは、私たちが報酬や賞賛のありどころを天において過ごすようにとの最大の動機づけ、励ましです。主に従い、両親に、人に従いなさいとの厳しいみことばは、まことの神以外のものになびき、朽ちてしまう宝をため込んでしまう私たちへの配慮です。地にあるものではなく、天にあるものに照準を合わせて、右にも左にもそれずまっすぐに主の道へ歩みだしましょう。


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