top of page

福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「神を知らせる人」


聖書 マタイの福音書 5:13-16

はじめに:

福音とは良き知らせ。それを私たちは聞いたので、この礼拝をごいっしょしています。良き知らせを聞いたということは、あなたに伝えてくれた人がいたはずですね。この時代に、この日本で聖書のことばを聞くことができるのはなかなかあることではありません。あなたは特別な存在です。

なぜなら、この日本においてクリスチャン人口は1%(1/100人)と言われているからです。さらに、毎週教会の礼拝に参加しているアクティブなクリスチャンは0.5%以下(1/200人)だと言われています。だから、もしあなたが教会に行こうよと誘われたとしたら、とても恵まれている(言い方としてはラッキーな)人です。


その恵みを知るために、いろいろな確率を見てみましょう。

次の出来事の確率を想像してみてください。

(当日まで確率の発表はナイショです!想像してください)

〇宝くじの一等が当たる、サイコロで1が連続9回出る、

雷に打たれる、青信号で連続23回通過する

〇東大に合格する、初恋の人と結婚する

〇日本で1億円以上持つ、1年内に交通事故にあう

〇花粉症、左きき、自動販売機の下にお金が落ちている

〇アイス(ガリガリ君)が当たる

〇黒ひげ危機一髪(ゲーム)が飛び出る

〇今、となりにいる人と出会った確率


いかがでしょうか。あなたが教会の礼拝にいることは0.5%しかない確率の出来事に当選した人だということです。どれほど恵まれたことであるのか実感できるでしょうか。ただし、これは日本在住の1%のクリスチャン、その中でも毎週礼拝に集っている0.5%のクリスチャンが「全員」良き知らせを伝えている場合ですから、実際はもっとまれな確率に出会ったということになります。


私たちが素晴らしい恵みにあずかった者であることを確認したうえで、さらにもう一歩さきに進んでいきましょう。

それは、どうしたら「次の恵まれた人」を生み出すことができるかということです。もし、あなたが隠れクリスチャンだったら・・・人が福音を聞いたり、クリスチャンに出会う確率はその分減っていきます。減るものは心配やミス、病気やケガだけでいいですよね。あとのものはだいたい増えた方が良いものばかりです。だからぜひ、もっとも良いものである福音を聞く人を増やしましょう。


福音を聞くことのできる人を増やすためには、福音を伝える人を増やすことです。私たちが励まされ、力を受けて福音を伝える者になることです。どの教会のことでしょうか?他の教会のことではなく、この福岡めぐみ教会です。誰が?他の誰かではなく私たちです。私たちとは?となりの人ではなく、あなた自身です。神さまの語りかけを聞いてまいりましょう。


1 地の塩

もう一度、今年の年間聖句を思い出してみてください(礼拝室前面の左を参照)。「悔い改めて、福音を信じなさい」とは、イエスさまの宣教の第一声です。イエス・キリストのこの目的を果たすために何をなさったでしょう。自分一人で頑張ったでしょうか。世界をデジタル化していっせいに福音が聞けるようにスマホを持たせ、アプリをダウンロードさせ、閲覧できるようにしたでしょうか。いいえ、そうではありませんね。


イエス・キリストは人々に福音を伝えるために、弟子と作られました。「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)と呼びかけられたイエス・キリストは、ついて来た弟子たちとともに過ごし、いっしょに歩き、神の国について教え、どんなときも励まし、朝晩彼らの信仰が成長するように祈られました。主イエスは、弟子を作ることに終始しておられたのです。


私たちは福岡めぐみ教会も主の教会です。私たちで良いと思うことや私たちで考えたことではなく、イエス・キリストがなさったことを、望んでおられることを取り組んでいなければなりません。イエスさまが福音を伝えるために弟子を育ててほしいと願っておられるのに、私たちが「いや、それはいやだ。断る」「違うことをするんだ」と言っていたら、それは主の教会ではなくなりますね。▶

そのイエス・キリストが「あなたがたは地の塩です」(13)と言われています。主の弟子はこうなんだ、わたしはこのような者を育てたい、わたしはあなたがたにこうであってほしいとはっきり教えてくださっています。そう思うととても貴重な個所です。


聖書の中で、塩の役割を探すといくつか知ることができます。その中の一つは主へのささげ物に欠かせないものであることです。「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい・・・あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない・・・どのささげ物も、塩をかけて献げなければならない」(レビ2:13)。パン種(ふくらし粉、イースト菌、罪の象徴)は絶対に入れてはならないのですが、塩は必ず入れなさいと命じられています。塩は神に受け入れられるささげ物として、その存在価値があるのですね。


もう一つは、預言者エリシャが水を癒す場面で塩を使っています。「エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで・・・こうして水は良くなり、今日に至っている」(第二列王記2:19-22参照)。こうした塩の用いられ方もご存知の上で、イエス・キリストは「あなたがたは地の塩です」と言われました。神へのささげ物として自らを見つめてみる。ピリッと背筋が伸びる。癒す者として自らを見つめてみる。足らないながらも、せめて逆に争いや火種をもたらすまいと自制してみる。▶▶

そして、注目したいのは、ただ塩ではなく「地の塩」と言われている点です。主の弟子とは「地の塩」です。どこに振りかけられた塩なのか。あなたはどこに遣わされている者なのか。「地」ですね。福音を聞いたことのない人々がわんさかといる地です。癒えない傷がたくさんある地です。まだ耕されていない土地がたくさんある地です。あなたはそんな地に遣わされた塩。貴重な塩。だから塩気を保っていてほしい。どうか、同化しないでほしい。


その地を腐敗から守るのはあなた。その地を良いものにするのはあなた。その地を聖めるのはあなた。その地を害から守るのはあなた。塩は塩としてそこにいることでそうした役割を果たすことができます。そんな社会の腐敗を止めるとか、聖なるものとするとか大層なことはできないと尻込みするかもしれません。マルコにはもう一つ塩の役割が記してあります。「あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9:50)私たちがそれぞれ自分のうちに塩気を保つなら、他人との関係を正しく持てるということです。自分自身に塩気を保つとは、他人と境界線を引くことです。あの人がそうなのは自分のせいだと不安に感じたり、うまくいかないのを他の人のせいにして攻撃したり、過剰に干渉することから守ってくれます。塩は周囲にだけ影響をもたらすのではありません。あなたが塩気を持つことで自分自身や周囲との関係も守られていきます。■


2 世の光

主イエスは「あなたがたは世の光です」(14)と続けて言われました。「地の塩」とセットで覚えるといいよということですね。私はたまに「世の塩」とか「地の光」など、どっちがどっちか分からなくなってしまうことがあります。


この光は前提として「山の上にある町」、「燭台の上に置く」とされています。イエス・キリストは、「な、だれも明かりをタンスの下に置かないだろ。それと同じ。あなたたちもこの世で隠れてコソコソしようってのは初めからナシなんだよ」と、絵本を見せるように教えておられる感じです。今も、町は夜になるとネオンがまぶしく、大きなパネルビジョンも目立ちます(一番頑張っているのはパチンコ屋です・・・)。「あなたがたは世の光です」と言われているイエスさまのスケールはとても大きいのです。そんな輝きを、主の弟子、クリスチャン、教会には放つように頑張ってほしい・・・のではありません。


「あなたがたは世の光です」とは主の宣言です。私たちが努力しなければならないのは、地の塩、世の光になろうとすることではなく、「地の塩です」「世の光です」との主の宣言を受けとめることです。あえて宣言なさるのは、私たちが塩気をなくしやすく、食器棚の下に隠れたくなりがちだからですね。主イエスは私たちが勇気を失い、冷めやすく、恐れてしまうのをよく知っておられます。▶

それでも、私たちがいちいち状況や気持ちに引きずられて、クリスチャンに宿っている素晴らしいものを疑ったり、失ったり、否定したりすることがないようになさっています。それがここでの宣言の意味です。


ここに至る文脈を見ると、直前の5章11,12節には主イエスに従うことのゆえに、ののしられ、迫害を受け、ありもしないことで悪口浴びせられと散々な目にあわされています。誰からも感謝されず、褒められず、やることなすこと文句を付けられ、あたたかい目や言葉をかけてもらえない。目ざわりで邪魔にされ、うっとおしく思われる。それで世の光だと言われても自信など持てるはずがありません。そんなことまったく感じられていません。


そのような状況で、主イエスは「あなたがたは世の光です」と言われました。なぜでしょうか?それはクリスチャンの役割がそこにあるからです。私たちがののしられてもののしり返さないときに、それはキラッと輝く世の光なのだからです。私たちが苦しめられても、脅し返さないとき、ピリッと効いた塩気を発揮しているのだからです。人間の目には一方的に損をしているようであっても、そこにみことばの実現があります。人間的には裏切られ、疲れさせられる状況であっても、神のみことばに照らし合わせると、ピッタリ合っています。こうして、私たちはみことばへの信頼を深めていくのです。▶▶

私たちは、主イエスがやさしいことやうまいこと言ってくれるから、信頼するのではありません。主イエスが真実を告げておられるから、信頼するのです。イエスさまは決して甘いことばや安心させるようなセリフで弟子を勧誘しませんでした。むしろ、世にあっては患難があるとか、わたしの名のゆえに迫害されますとか、自分を捨て、自分の十字架を負って従って来なさいとか、最後まで耐え忍びなさいと言っておられます。


これらは、私たちにとって厳しいみことばですが、それらはすべて真実です。それだから、私たちは主イエスを信じ、主イエスの言われたみことばに従うのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われたイエス・キリストです。


私たちは、この方をただやみくもに信じるのではありません。やけくそではありません。このイエス・キリストが復活されたから、すべてのことばを信じることができるのです。主イエスは十字架につけられましたが、3日目によみがえられました。主イエスは復活されました。それまでご自身が言われたとおりになりました。それで、主イエスの言われることはすべて真実であることを、私たちは信じられるし、信じるべきなのです。死以上にごまかせるものはありません。その死から復活することを預言され、実現したことは何よりの信頼の証拠です。■


3 人々の前で

今朝の個所で、目につくのは「人々」という言葉です。塩が塩気をなくしたら「人々に踏みつけられる」。あなたがの光を「人々の前で」輝かせる。そうすれば「人々が」天におられる父をあがめるようになる。鍵は人々です。


1つ目の「人々」とは、主の弟子・クリスチャンたちを冷たい目で見て、ののしり、あざけり、迫害する人々です。なぜ、そんなことをするのかというと、彼らはよ~く見ているからです。クリスチャンがどのような立ち振る舞いをするか、クリスチャンがこんなときどんな反応をするか、クリスチャンの言動が、聖書と一致しているかをよく見ている人々です。


もし、クリスチャンがそういった人々に「ひよって(日和る:おじけづく、ビビる、多数派によせること)」、聖書のことばを取り下げるなら、彼らは「踏みつける」のです。クリスチャンを褒めたり、クリスチャンになることはないかもしれないけど、その価値を認めています。だから、クリスチャンがその看板をおろすなら、そんなクリスチャンは役に立たないと外に投げ捨て、踏みつけるのです。あなたの信仰が本物なのか、クリスチャンが人よりも神に従うかを見ています。あなたが迫害され、意地悪されているように思えても、そこでブレないことがその人々に対する何よりの塩気、光となります。▶

2つ目の「人々」とは「あなたがた(クリスチャン)の光を人々の前で輝かせる」ように命じられている人々です。ここは、今朝の個所で唯一の命令形です。絶対にしなければいけないことですね。ののしりや迫害に耐えるだけではなく、人々の前で「良い行い」(16)見せるように命じられています。わざわざ人々に見えるように良い行いをするのは、偽善的な気がしないでもありません。


ただ、これが何のためであるのか、3つ目の「人々」とつなげて読むとわかります。それは、良い行いを見た人々が「天におられるあなたがたの父をあがめるようになるため」(16)だからです。良い行いが「自分がほめたたえられるため」「自分をよく評価してもらうため」「自分をよく見せるため」であれば、ブッブー、偽善ですね。しかし、クリスチャンの良い行いは、それを見た人たちが神をあがめるようになるためです。


人々はよく見ています。たとえ自分と思想や宗派が違ったとしても、良いものは良いとちゃんと認めてくれるのも人々です。日本キリスト教史の先生が「日本人はクリスチャンのことをよく見ています。クリスチャンにとっては、それが窮屈で監視のように思えるときもあるかもしれません。しかし、彼らは見てくれているのです。クリスチャンが良い行いをするのを見て、それが良いものだと認めてくれます」と教えてくれたのを覚えています。▶▶

人々に「見られている」から「見てくれている」に変わるとき、私たちはがぜん、勇気を得ます。その動機は、自分たちの良い行いを見せるためではなく、自分たちをそのようにさせてくださっている主を見てもらうことです。

例:岩手での震災支援の話し、クリスチャンの言動を人々は見てくれていて、認め、受け入れてくれた。


結びに、確率の話を思い出してください。もっとも低い確率は宝くじの一等が当たること(1,000万分の1)でした。宝くじは当たれば3億円です。クリスチャンがもたらすものは、それよりももっと高価なものです。お金では買うことのできない永遠のいのちです。どんな運がよくても当たらない罪の赦しです。もし、私たちがこれまでと同じように過ごしていたら人々がこの福音という宝にふれるのは0.5%以下です。福音を聞いた人の100人に1人がイエス・キリストの救いを受け入れたとしたら、それは200万人に1人(0.00005%)の確率です。教会がある福岡市西区で考えると、西区の全員に福音を伝えると10人が福音聞いて受け入れる計算になります。これらの人々は、見てくれています。私たちは人々が神を見ることができるように立ち振る舞います。何よりも価値のある宝を持っているのだと誇りをもてるように。地の塩、世の光としてブレることがないように。福音の奇跡を運ぶ人として用いられますように。■


閲覧数:0回0件のコメント

最新記事

すべて表示

「神を意識して」

はじめに 先週水曜日の夜、大分県沖(豊後水道)を震源とした地震がありました。その直前、携帯電話に緊急地震速報(警報)があり、アラームが鳴り響きました。私が東北にいたころは、ひんぱんに地震があったのである程度慣れていましたが、九州に来て2年が過ぎ、地震への警戒が薄れていました。自分でも意外なくらい、警報の通知音に心身が反応していました。 そして、これが本来の警報の役割であり、効果であると思いました。

「整えられた道を」

はじめに 本日から新たな聖書箇所でシリーズが始まります。これからしばらくの間、主の日の礼拝ではルカの福音書からみことばを聞いてまいりましょう。1-2章はクリスマスの出来事が記されており、昨年の12月アドベントで開きましたので、3章からスタートいたします。 ルカの福音書の著者はルカとされています。この福音書自体にルカが著者であるとは書かれていませんが、使徒の働き28:14の「私たち」や、またパウロの

「失望に終わらない希望」

はじめに 本日はイースター礼拝です。 ご存じのように、私たちの教会の屋根には十字架が掲げられています。どんな十字架でしょうか?夜になると赤い光を放ちます。そして、イエス・キリストがはりつけにされていない十字架です。伝統的なカトリック教会や聖公会などでは、十字架とはりつけになったイエス・キリストが掲げられています。 これらのことから、それぞれに強調点の違いがあることが分かります。イエス・キリストがは

bottom of page