「苦しまれたイエス」
- 大塚 史明 牧師

- 3月8日
- 読了時間: 9分
ヨハネの福音書19章28節
苦しみの意味
今年のレント(受難節)では「十字架上でのことば」を見ています。イエスさまが十字架につけられた際、合計7つのことばを発せられました。①「父よ、彼らをお赦し下さい」②「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」③「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」。これら3つは十字架のそばにいる人に向けて言われたことばでした。そして、先週の④「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、父なる神に向けて言われました。今朝の「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)は、7つのことばの中で唯一ご自身に向けて言われたことばです。先週の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」は大声で叫ばれたと書いてありますが、この「わたしは渇く」ということばは、おそらくポツリとつぶやかれたのでしょう。大切なことを大声で叫んだり、またかすかな声でつぶやくのもアリなのですね。ドラマなどで家の中で妻がひとり言を言いながら忙しそうに家事をしていると、夫が「何か手伝おうか?」と聞く場面があります。つぶやきの方が他人の耳に残ることの一例ですね。イエスさまの発せられたことばがこうして書き残されているのは、私たちがこのみことばを注意深く聞き取るようにとの、神の意図だと感じます。
「渇く」とは、喉がカラカラ、水分を切望する表現です。十字架は極悪人だけに限定されていた極刑でした。平均では十字架につけられてから三日間苦しんで死に至るそうです。十字架刑にされた人は、一日目特に「水がほしい」と懇願します。出血と手足がくぎで打たれて不自由な体勢でもがきながら呼吸するため、喉が渇き、口から全身が焼けるような痛みを感じるそうです。実は十字架につける直前、兵士たちが「没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった」(マルコ15:23)ことが記録されています。「没薬」はおそらく鎮痛剤として使われていて、それを飲ませることで痛みを緩和させる効果があります。それと同時に、死を遅らせて少しでも長く十字架で苦しませるという方法でもあったそうです。イエスさまは飲むことを拒まれたので、十字架での燃えるような痛みや地獄の底のような渇きを生々しいまま経験されました。痛みや苦しみを1%も割り引かないで受けられました。
そうして出てきたことばが「わたしは渇く」です。もちろん、喉がカラカラで、身体が水を欲している渇きであることはわかります。しかし、先週学んだように、イエスさまが十字架で感じておられたのは「父なる神に見捨てられた」苦しみでした。断水して水が飲めずに渇くように、神と断絶してたましいが干からびている渇きです。そのまま渇ききってしまえば、二度と水を湧き出すことができない死んだ泉のように、ひび割れたまま神と切り離されます。砂漠で水を求めるようにして、神との回復を求めて「わたしは渇く」と言われました。しかし、苦しみには意味があるのです。
「楽しみか、苦しみか、どちらを選びますか?」と言われたら、誰もが「楽しみ」を選びます。人生はずっと楽しい方がいいという意見に反対する人はいないでしょう。ただ、人間にとってずっと続く楽しみはほとんどありません。チキンが大好きでも、食べ過ぎたら嫌になります。食べ放題で最初は目を輝かせてお皿に盛りつけていたのに、終わりごろには後悔はしても感謝しないで店を出ることもあります。また大好きなゲームもずーっとやり続けると、つまらなくなったり、何とも感じなくなったりもします。それは、楽しみが私たちを永遠に引きつけるものではないからです。ある時点で無関心にもなるのです。
その反対に、苦しみは私たちの関心を引き起こします。苦しみになれてしまって、なんとも思わない、感じない人は誰もいません。苦しみが続けば続くほど、より解放されたい思いは強くなります。ある作家が「苦しみは神のメガホン」(CSルイス、「痛みの問題」p.118)と言いました。これは、神が苦しみを使って私たちを呼び求めているという意味です。これは、私たちの考えとは反対かもしれません。苦しみのとき、私たちが神を呼ぶんじゃないかと考えているからです。しかし、実は苦しみを使って、神が私たちを呼んでおられるのです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)「神はわれらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け」(詩篇46:1)。私たちは苦しみを経験して、初めて本当に主を切に求めたり、満ち足りていたと思っていたけれど本当は空しい人生だったと気づいたりします。それは苦しみを通して、主が「わたしを呼び求めよ」とメガホンで叫んでおられるからなのです。
2.渇いて求める
「わたしは渇く」は、主から私たちへの呼びかけでもあります。イエスさまはそこまで苦しまれ、渇きを経験されました。それはいったいどんな意味があるのでしょうか? 渇けば水を求めますが、渇いていなければ水を求めません。神との断絶を味わえば、そこからの救いを必死になって求めますが、神との関係に渇いていなければ、神を求めることはありません。このことから、私たちの礼拝への姿勢は、どれほど神に渇いているかを知るバロメーターになります。もし、「行っても行かなくてもどっちでもいい」「何の求めもないけど、ただ身体がここにあるだけ」「賛美とかだるい」「聖書分厚い。うける」と渇き求めのない姿勢の礼拝には意味がありません。神から与えられる喜びも、力も、恵みも体験できません。
しかし、渇きがあれば求めます。渇きは、私たちと神との関係がより深くなるために必要です。身体は水分でちゃんと潤っていることが大事なので、そうでないときには渇きを知らせます。同様に、私たちは主を礼拝し、主とともに生きることで真の幸いを得ますが、そうでないときにはたましいが渇いて知らせてくれます。私たちは神によって造られたので、いつもたましいが神との関係に浸って、潤されているのが本来の状態なのです。しかし、人間が自分で主導権を握って生きるようになり、神から離れて人生を歩んで行った結果、中心にあるべきはずの神との交わり、神から来る平安、神の前で過ごす喜び、神に仕える意義を失ってしまいました。それで、たましいは渇いているのです。たましいが呼び求めているのです。人が主を求めるのは、そのたましいが渇いているからなのです。
何となくでもよいので、教会に今いるのだとしたら、それはあなたのたましいの渇きのゆえです。その干上がってしまっているたましいの底に、いのちの泉を注ごうとしてくださっている主の導きです。渇きがあるからこそ、私たちはこうして主を求めて礼拝をささげ、主を求めて聖書を開き、主に近づきたいと賛美するのです。だから渇きに気づけることは恵みの第一歩です。渇きのない人にならないようにしてください。渇きのないクリスチャンは、ただの宗教活動をする人です。礼拝はお勤めになり、奉仕は義務になり、祈りは面倒くさくなり、賛美は恥ずかしくなります。それは、渇いていないので、主を求める必要を感じないからです。その行き着く先は、イエスさまが「わたしは渇く」と言われた水のない砂漠のような絶望です。気づいたときにはもう遅いということにならないように、今あなたが聞いているみことばに応答してください。キャンプで会った学生が自分の証しをしてくれました。彼の誇りは勉強で、第一志望の大学に入り人生に自信を持っていました。しかしどんな人と会ってもまずその人の学歴や学力が気になり、ねたんだり、見下したりするようになりました。ある時、聖書の「十字架以外に誇りなし」とのみことばに出会い、自分の学力が証明したのは自らの賢さではなく、人を見下す罪深さであることを知りました。また、神のひとり子を引き換えに、こんなにも醜い自分、聖なる神の前で罪人である自分を救ってくださったという神の愛を知りました。この神の愛と自分の本当の価値を知り、クリスチャンになりました。神は私たちの壊れている部分をご存じで、そこにイエス・キリストの愛を注いでくださいます。
3.聖書が成就するために
イエスさまがこのことばを発せられたきっかけは、「聖書が成就するため」でした。ここでいう「聖書」とは「旧約聖書」です(福音書の時代、まだ新約聖書は未完成)。イエスさまは旧約聖書の預言(キリストについて書かれてあること)成就のために、「わたしは渇く」と言われました。イエスさまの発言は、「聖書にそう書いてあるからここで言わなくっちゃ」という機械的なつじつま合わせや、やらせからではありません。旧約聖書の救い主についての預言は、この方の生涯でことごとくその通りになっていると私たちに告げ知らせる意図をもって、「聖書が成就するため」と記されたのです。救い主は「私たちの痛みを担い、神に罰せられ、打たれ、苦しめられる」(参照:イザヤ53:4)。「力は土器のかけらのように乾ききり、舌は上あごに貼り付(く)」(詩篇22:15)とも預言されています。このイエスさまこそその方なのだと、これらの預言が証言しているのです。これが、聖書が他のどの本とも違う点です。
イエスさまが神のみことばに従うことはとても大変なことでした。十字架が父なる神のみこころ、ご自身に対する計画だと分かっていても「主よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ22:42)と3度も祈り、それから従われました。すべては、みこころがなるためです。それがイエスさまの生涯の目的であり、行動の指針でした。聖書に預言され、これらの現されたみこころが成就するために、ご自身をささげられたのです。私たちも、生涯の目的をもち、行動の指針をもっています。仮に、私たちが自分の願いや昇進や思い通りになること、なるべく生活の中で楽しみを増やすこと、欲張らなくても平穏無事でいることが最たる願いであれば、それがかなったとしても心の底は渇いています。なぜなら、私たちは主によって造られ、主に仕えるために賜物が与えられ、主に貢献するために招かれているからです。私たちが神に渇き、みこころを行うこと、みことばに従うこと、聖書が成就することを願って渇くなら、神との関係はさらに潤い、まことの意味で満ちた人生、満ちあふれた人生を送ることができるようになります。それは、イエスさまが渇ききった末に私たちに教え、届けてくださった主との新しい関係です。
主を選ぶこと、主に渇くこと、みことばを聞くこと、聖書に従うことは大変なことでしょうか? 先に紹介した作家がこのように書いています。「私たちが地獄か神さまかを比べて神さまを選ぶのであれば、それは侮辱でしかない」。そうです、生まれながらの私たちは盲目で真理が見えず、耳が閉じてみことばが聞こえず、罪に誘惑されて落ち着かないので、主に対する熱い願いがありません。それよりも世での生活や成功や安定を追い求め、日々色々なことで思い煩っています。そして、いざ神に従うことを迫られるとその価値が分からず、地獄が嫌だから神を選んだり、自分の生活の変化を嫌って神を退けたり、面倒だから神を遠ざけたりして過ちを犯しています。本来、神のために生きられることは最高の栄誉のはずなのに、です。
どうか主よ、神に従う人生、私たちの最高の目的であり、これ以上ない生き方である神に従う人生を、謳歌する者としてください。■

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