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「見捨てられたイエス」

マタイの福音書27章46節


  1. さばきの闇

今朝から「十字架上でのことば」を見てまいります。イエスさまが十字架につけられた際に発せられたことばが、7つ聖書に記されています。十字架につけられたのは午前九時(マルコ15:25)で息を引き取られたのが午後三時(15:33)でした。この6時間で発せられた計7つのことばが記録されていて、今月は後半の4つのみことばから学びます。前半の3つは昼の十二時までに、今日から見る後半の4つは正午から午後三時までに発せられたことば(正確には午後三時になってから4つ)です。


マタイ27章45節に「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった」とあります。これは雲行きが怪しくなり、あたりが暗くなったのではありません。本来、もっとも太陽が輝き、地を照らす時間帯であるのに、このときは「闇が全地をおおった」のです。それは、十字架で起きていることと関りがありました。つまり、神のさばきが行われたので、全地が闇におおわれたというのです。闇とは、ある二つのものを隔てるという意味です。AさんとBさんの間に闇があれば、互いに行き来できません。そして、このとき神によって引き起こされた闇とは、神と永遠に遮断される境界線です。この闇を晴らすことは誰にもできません。神がエジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に闇を置かれたとき、両陣営は互い近づくことができませんでした(出エジプト14:20)。同様に、このときイエスさまは父なる神に決して近づけない遮断の闇の中に置かれていました。

神との断絶である闇が3時間続きました。この間、イエスさまは十字架にはりつけにされ、一切ことばを発していません。十字架刑は、当時のもっとも残酷な死刑の方法です。超の付く酷悪人にしか施されない究極の死刑です。十字架を背負って歩かされる前にも、イエスさまは革製のむちで何度も打たれました。そのむちの先には鉄の玉が付けられていて、肩、背中、腰、足の肉はえぐられました。ゴルゴダに着くと、イエスさまの手と足は十字架に釘付けにされました。そして、その頭にはいばらの冠がささっていました。現在でもシンガポールでは特殊詐欺を働いた者に最高24回むち打ちにする法律を導入しています。イエスさまは人々にののしられ、兵士につばをかけられ、王服である紫の衣を着せられてからかわれ、身も心もズタズタにされています。痛みと恥の極みを経験されています。その間、何も言われませんでした。


イエスさまが十字架につけられたのは午前九時です。旧約聖書によると、朝九時と夕方三時はいけにえをささげる時間でした(民数記28:4)。それまで人々は毎朝、毎夕、子羊を全焼のいけにえとしてささげて神を礼拝していました。そのとき焼かれる子羊は、人間の罪が赦されるための犠牲です。神は、私たち人間を愛しておられるので、罪を赦す方法を備えていてくださいました。自分の罪の身代わりとして、傷のない子羊をほふるのです。ここで十字架につけられているイエスさまは、神が備えてくださった本物のいけにえでした。動物のいけにえでさえ胸を痛め、罪を痛感してささげてきたことでしょう。私たちも、自分のかわいがっているペットが身代わりにされているのを見たら、泣いて止めないでしょうか。しかも、ここで犠牲になっているのは動物ではなく、神の御子イエス・キリストです。罪のない方が実にむごたらしい扱いをされて十字架にはりつけにされています。旧約聖書で記されていた動物のいけにえは、ここで本物のいけにえをもって完成されようとしています。人間の罪は、動物ではなく人間によって償われるものだからです。十字架と闇は神のさばきが執行されているしるしです。


2.見捨てられた叫び

この十二時から三時までの闇は、神による罪のさばきが行われている3時間でした。それは肉体の痛みよりも悲痛でした。むち打たれた時はひと言も発せられなかったイエスさまが、この闇が3時間続いた後、堰を切ったように叫ばれていることからも分かります。それが今朝の中心聖句です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マタイ27:46)。イエスさまにとってもっとも恐ろしいのは神との断絶でした。肉体の痛み、人々からのあざけりには沈黙され、不当な裁判や弟子の裏切りではひと言答えるだけであったイエスさまが、ここでは叫んでおられます。闇によって完全に父なる神と断絶され、恐ろしさと苦痛のために叫ばれたのです。「わが神、わが神・・・」と。これまで、イエスさまは、神を「アバ、父」と呼んでおられました。父、子、聖霊の三位一体の完全な愛の交わりの中に生きておられ、神を父と呼ぶことのできる唯一の方でした。それほど親しい関係であったのに、ここでは「わが神、わが神」と呼んでおられます。もう父とは呼べない闇におおわれているからです。

そして「大声で叫ばれた」のは、神を遠くに感じておられるからです。誰も近くにいる人に対して大声で叫びません。そこにいるのが分かっているからです。しかし、相手が遠くにいたり、その姿が見えない場合、私たちは大声で叫びます。ここでイエスさまが大声で叫んだのは、究極の闇におおわれて神と断絶し、神から遠くに引き離され、神から見捨てられた苦しみに陥っているからです。むちで打たれても、ののしられても黙っていたイエスさまが、大声で叫ばずにはいられませんでした。この世でもっとも恐ろしいさばきを受けておられるからです。罪の代償は肉体の死や痛み、死後の漠然とした恐怖だけではありません。もっとも恐ろしいのは神に見捨てられ、神と永遠に隔絶され、神との関係に回復の余地がなくなることです。それを、聖書は救いのない滅びと教えています。


「永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられる」(第二テサロニケ1:9)。聖書が教える永遠の滅びとは、神の栄光や愛、あわれみを二度と受けることができないように退けられることです。イエスさまは、まさにその滅びの恐ろしさを味わっておられるのです。あのイエスさまが絶叫するしかない苦しみです。もし、私たちが自分の罪の問題をそのままにして死んでさばかれるとしたら、私たちは暗闇の中で泣いて歯ぎしりすると、聖書にはっきり書かれています。肉体や精神的な痛みはがまんできても、神との永遠の断絶はもっとも恐ろしい結末です。もし、私たちが神などいないと愚かな生き方をするならば、私たちは恐ろしい永遠の滅びを味わい始めるのです。

3.裂かれた幕

イエスさまが大きな声で叫ばれたのち、不思議なことが起こります。「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51)。エルサレム神殿は、イエスさまが十字架につけられていたゴルゴタの丘から離れたところにあります。神殿の中でも、神の選びがなければ誰も入ることのできない最も神聖な至聖所、その至聖所と外界を仕切る幕が裂けたのです。その幕は、聖なる神と罪ある人とを遮断していました。ただ唯一、年に一度だけ、大祭司が入ることを許される場所でした。その幕が裂けたのです。上から下へという裂け方は人間ができるものではありません、すなわち、神ご自身が天からその幕を破かれたのです。時は午後三時。いつもの子羊がささげられる時刻です。その時、イエスさまは息を引き取り、私たちの身代わりとしてその身をささげ尽くされました。本物のいけにえがささげ終えられたとき、神と人とを隔てていた幕が神によって裂かれ、新たな時代が始まりました。


何が新たになったのでしょうか。それは神と私たちの関係です。イエス・キリストを通して、神と私たちの関係は回復されました。神に対して負うべき罪の責任はすべて、イエスさまが十字架の上で負ってくださいました。イエスさまが闇の中で最期を迎えたのは、私たちの身代わりとなるためでした。本来、私たちがそのような最期を遂げるべきものでした。しかし、イエスさまは私たちの罪を背負って、本物のいけにえとして朝九時に十字架につけられ、午後三時に息を引き取られました。もう私たちは、自分の罪ゆえにさばかれることはありません。罪に対する罰、怒り、呪いはイエスさまが私たちに代わって受けてくださったからです。

こんな都合の良い話があるでしょうか? 私たち人間は、自分の罪が赦されるためには何かしなければならないと考えます。何もしないで赦されるのは道理にかなっていないと感じます。良い行いをすれば罪は償われ、神は喜んでくださるだろうと人間は考えます。まじめな人、優しい人、怒らない人もいるでしょう。しかし、神の領域まで完全な人は誰一人としていません。人間同士で比べればりっぱな人でも、神と比べて同等な人、優る人は誰もいません。完全である神に罪がないと認められるには、「生まれてから一度も罪を犯したことがなく、神のみこころだけを行ってきた者」でなければなりません。


しかし、そんな人は誰一人としていないのです。ここに笑顔でいる人でも、家では怒りっぽかったり、車を運転すると人格が変わることだってあるからです。だから、神の前に出るには、自分の行いや義に頼ってはならないのです。自分で自分を救える人はいません。唯一の救われる方法は、そんな私たちの身代わりに十字架についてくださったイエス・キリストを信じて義をいただくことなのです。本来、見捨てられるべき罪人は私のはずであったのに、その私に代わってキリストが十字架で見捨てられたので、もはや私に対する罪の罰は終わっています。それでも抵抗して自分の力で罪に対する罰、怒り、呪いを受けようとしますか? 私たちが受け取るべきは、罪のない神の御子イエス・キリストが十字架でご自身をささげて完了してくださった救いのプレゼントです。神こそが、ひとり子イエス・キリストを送ってすべての人の罪を負わせ、十字架につけ、この方を罪人として裁かれました。ここに神の愛があるのです。

神は罪人を愛してくださる方です。神と人との間にあった隔ての幕はキリストによって裂かれました。人は、罪や罰を抱えていると本来の活動ができなくなります。笑顔も視線も仕草もぎこちなく、頼りなく、よそよそしく、恐る恐る生きることしかできません。これらの重荷を降ろすには、罪の責めのない状況、自分に非があると悩まなくてもよい状況が必要です。それは犯してきた罪が全部正しく処罰されるしか方法がありません。私たちには、自分のしてきたこと、やってきたこと、これから犯してしまう罪を、どうやっても帳消しにはできません。時間は解決してくれません。ただ、イエス・キリストの十字架によってのみ、罪は赦され、刑罰は取り除かれます。今朝、私たちが聖書に記されているイエス・キリストの叫びを聞き、身代わりの死をもって幕を裂かれた神の救いを受け取るとき、すべての責めから完全に解放され、生きられるようになります。ぜひ、イエス・キリストの救いを受け取ってください。救われた人は、解放と自由を楽しみ、救いを準備してくださった神とイエスさまを喜び賛美しましょう。■


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