「迎えてくださるイエスさま」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年11月2日
- 読了時間: 8分
聖書 ルカの福音書19章1-10節
ズレてしまった
みなさんは、自分の名前の由来、意味を聞いたことがあるでしょうか。私の「史明(ふみあき)」という名前は、祖父から「明」の字を受け継いできました(清明→信明→頼明→明子→宏明)。
今朝はザアカイのお話しです。ザアカイには「聖い」という意味がありました。彼の親が「神さまにふさわしい子になるように。聖い歩みをするように」と願ったのです。そのザアカイの特徴を聖書は続けて記します。彼は「取税人のかしらで、金持ち」でした。聖書はこれだけの情報で、ザアカイが汚れた歩みをしてきたことを提供しています。当時、取税人はあくどい職業とされていました。ユダヤの地はローマ帝国に支配されており、ローマは植民地の面倒な役割をその土地の人にさせていました。誰も税金を納めること、ましてや支配国に納めるのは気が進みません。その徴収役をローマ人がやると、彼らに危険が及びます。それで、ローマ帝国はユダヤ人にユダヤ人の税金を集めさせていました。取税人はローマ帝国とユダヤ人の間にいる微妙な立場です。ただし、一つだけ利点がありました。それは「金持ち」になれること。ローマに規定額を納めれば、あとは取税人の好きなだけお金を集め、自分の財産にすることができました。人からは嫌われますが、金持ちになることができたのです。しかも、取税人は世襲制ではないため家族の反対を押し切り、友人関係も断ち切って、徹底して取税人の仕事に打ち込み、財産を築きました。また、ザアカイにはもう一つの特徴があったことを記しています。それは彼は「背が低かった」ことです。聖書が身体的特徴を記すのはとても珍しいことです。旧約聖書ではサウル王は背が高く、ダビデは顔がよかったとあります。背が低いと記されているのは聖書の中でザアカイだけです。それは、そのことが彼の人生に大きな影響を与えて来たからです。おそらく、ずっと背が低いことが彼には大きな劣等感、コンプレックスで、どうにかして見返してやろうと考えていたと思われます。そうして取税人としては徹底してブレずに来たザアカイですが、その名前からはズレてしまいました。
「聖い」という彼の名前からは程遠いところまで来てしまいました。人々は彼を「罪人」(7節)と呼んでいます。
お金がザアカイを幸せにしてくれるはずでした。金持ちになれば満足して生きられると考えていました。しかし、そうではありませんでした。その証拠に、ザアカイは「イエスがどんな方か見ようと」した(直訳:熱心に見ようとした)とあります。彼に何の不満もなければ、イエスさまを見てみたい、見に行こうとは思わなかったでしょう。ザアカイは、イエスさまが彼の住む町エリコを通られることを聞いて、いてもたってもいられなくなりました。そうして彼は木に登ります。古代パレスチナでは大人が木登りするのは品位に欠け、プライドを捨てないとできない行為でした。
人々は彼のために道を開けることも、助けることもしませんでした。それまでの彼が気に入らなかったからです。確かに、大人が木に登っている姿は恥ずかしいものです。家族や友だちと断絶し、必死に仕事に打ち込んだけれども、今はひとりぼっちで木にしがみついている。名前にある「聖さ」「神さまとともに歩む」という人生からはズレた姿がここに浮き彫りになっています。
失われていた
聖書は、このズレてしまった状態を「失われた者」(10節)と教えます。失うとは、もともとあるものがなくなっていることです。ザアカイの人生は、親元や友だちのところからいなくなっているのが問題の本質ではなく、神さまから離れ、ズレてしまっていることです。神さまとともにいる人生であれば、背の低さから人生を狂わせるような反逆心を抱くこともなかったかもしれません。神さまとともにいれば、取税人という仕事もズルをしないで誠実に行い、信頼や友人を得ていたかもしれません。
だから、彼の問題は職業や身なりや名前ではなく、彼自身が神さまからズレ、遠く離れてしまったことにあります。しかし、物語はここからがスタートです。ザアカイは人生の暗闇やお金のむなしさなどを経験し、今、イエス・キリストに会おうとしています。それまで間違ったもので人生を豊かにしよう、自分を肯定しようとしてもことごとく失敗していました。ですが、今回は違います。
ザアカイが木に登ったちょうどそのとき「イエスがそこを通り過ぎようとしておられ」(4節)ました。するとイエスさまから「ザアカイ、急いで降りて来なさい」(5節)と言われます。事の始まりは、ザアカイがイエスさまを一目見たいと思ったことのように見えます。しかし、実はそのザアカイは捜されていたのです。なぜなら、ザアカイは「失われた者」だったからです。神のもとから少しずつズレ、遠くまで離れ、失われた者になってしまった。だから捜していたのはザアカイではなく、神であるイエス・キリストです。確かにザアカイは木に登りました。しかし、その木の先にイエスさまがいたのではなく、下から呼んでおられます。「急いで降りて来なさい、わたしがあなたのすべてを受け止めるから」と言わんばかりに。
聖書は「イエス・キリストはすべての人の救い主」と教えます。また、「狭い門から入りなさい」「イエス以外には救われない」とも教えます。これに対し、ある人は「キリスト教は寛容ではない。すべての宗教が尊いのに、聖書だけ、キリストだけというのは理解できない。そんな頑固にならず、寛容にほかの宗教も認めたら?」と言います。
さて、本当の寛容とは何でしょうか。相手が何をするのも許可し、優しく見守り、文句を言わないことが寛容なのでしょうか。そうだとすると、たとえば私の妻が「あなたが物足りないわ。2メートル以上あって、足が長い人と付き合うことにするわね」と言ったとしましょう。
寛容は、妻のそのリクエストを容認することでしょうか。いいえ、違いますね。結婚関係で、そんな相手の身勝手を許容していたら、本来の愛の関係が崩れてしまいます。それを認めるのは、寛容ではなく無責任、愛の放棄です。ただし、万一相手が過ちを犯したとしても、間違いに気づいて戻ってきたときに、受け入れるのが寛容です。これが寛容の本当の意味ではないでしょうか。
このザアカイの物語にもイエス・キリストの寛容を見ることができます。ザアカイはズレ、外れ、失われるところまで突き進んでいました。しかし、ザアカイがひとたびその木から降りて来るなら、イエスさまは真下からそのすべてを受け止めてくださいます。これが寛容です。イエス・キリストは寛容な心で、失われていたザアカイを捜し、受け止め、近づいておられます。無理強いは決してせず、本人が走ってよじ登ったその木の下で、待ち構えてくださっています。
救われた
悪人のザアカイが、木から急いで降りて来て、意外なことを言います。それは、これまで彼が脅し取った物があれば四倍にして返し、彼の財産の半分を貧しい人に施すことでした(8節)。このことを、ザアカイは誰に言われたのでもなく、自ら考え、実行します。お金に執着し、脅してまで巻き上げていたのになぜでしょう?
それは、ザアカイにとってお金や自分で自分を守る生き方より素晴らしい生き方を見つけたからです。イエス・キリストと出会い、受け止めてもらったので、自然と彼はこれまでの罪を告白し、違う生き方へと導かれました。ザアカイをこのように変えたのは、イエスさまが彼をそのまま受け止め、愛し、友となってくださったことに始まります。ザアカイは、そのイエスさまの招きを受け取ったので、変えられました。お金や競争、孤独に支配されていた人生から、イエスさまがいっしょにいてくれ、自分の友となってくださることが彼の喜び、原動力となりました。新しい人生は、お金や業績で得る必要などありません。ただ、イエス・キリストの愛と招きに応えるだけで始まるのです。
エリコの町の人々は、そんなザアカイを歓迎したでしょうか。「あのザアカイが変わった」「良かった、私たちも彼の友となろう」と反応したでしょうか。いいえ、彼らは「あの人は罪人のところに行って客(友)となった」とイエスさまもザアカイも非難しています。イエスさまは、「罪人の友」と呼ばれる犠牲を払って、ザアカイの家に泊まってくださいました。ザアカイに関わらなければ、そんなことを言われることはありません。しかし、イエスさまはザアカイのために非難されることを選ばれました。その犠牲を払ってでも、失われたザアカイを取り戻すためです。
ザアカイが変わったのは、イエスさまが彼のために払ってくれた犠牲の大きさに気づいたからです。イエスさまが人々から非難されるのをいとわず、ザアカイの友となってくださったことに気づいた時、ザアカイは、もはやお金でも人々の関心ではなく、ただイエスさまに喜ばれることに人生をささげるようになりました。まさしく、神以外のもの=偶像(むなしい神々)から解放され、救いにあずかりました。自分を見失っていたところから、イエスさまに捜され、呼びかけられ、本来のあるべき場所へと戻されました。まさしく、これからは彼の、ザアカイ=聖い、神とともに歩む者としての新しい人生が始まります。ズレていた彼の道が戻されました。人を上手に愛せなかった彼が、与えたり招いたり分かち合うことができるように変えられました。
迎えに来てくださるイエスさまは、今日、あなたのもとを訪れています。下からあなたを見上げています。頑張って上へ上へと目ざし、もがいていたあなたを、「もう降りて来ていいのだよ」と下から腕を広げて待っていてくださいます。どん底だと思い沈んでいたあなたを下から支えてくださいます。その呼びかけに応えましょう。■

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