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「遣わされる」

聖書 ルカの福音書9章1-9節


1. 呼び集められる

先週、飛行機で愛知県にある中部国際空港から福岡空港へ帰る際、次のようなアナウンスがありました。「皆様、当機は間もなく福岡空港へと着陸いたします。どうぞお忘れ物のないようにお気を付け下さい。スマートフォン、携帯電話、タブレット、モバイルバッテリー、充電ケーブル、搭乗券、ペットボトル、水筒、お子様用のおもちゃ、化粧品、ワイヤレスイヤホン、文庫本、お仕事用の資料、パソコン、めがね、お財布、腕時計、足下のお手荷物、収納棚にありますお土産品など今一度ご確認くださいませ」。めちゃくちゃ多いので、笑ってしまったと同時に、身の回りにいつも持ち歩いているものばかりだとも思いました。改めて、私たちはモノに囲まれ、モノに執着し、モノを持ち歩いて生活しているのだと実感しました。


今朝、イエスさまは十二弟子を呼び集めて「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」(3節)と言われました。先ほどの機内アナウンスや私たちの日常生活とは真逆の指示です。イエスさまの目的は十二弟子を通して「神の国を宣べ伝え」(2節)ることでした。そのために彼らに「悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けに」(1節)なりました。イエスさまは、何も持たなくてもいいと言われましたが、神による権威が彼らに授けられていることが前提にあります。

イエスさまの時代は、神のことばを教えることはもちろん、それに加えて、悪霊からの解放や病気を治すことで神の国の到来を人々に告げ知らせていました。悪霊から解放し、病気を治すことで、神の力や神の支配、神の恵みを現わしていました。イエスさまは、そのための権威を弟子たちに授けられました。神さまによる権威ほど強力なものはありません。


そのことに気づかせるために、イエスさまはあえて必要以上のものを旅に持っていかないように、初めに注意をしておられます。こうして読んでいると、イエスさまは教えるのが上手だなあと思います。先週、松原湖バイブルキャンプで子どもたちにメッセージをしてきました。小学1年生から6年生まで約50名に集中して聞いてもらうのは、少し大変です。山の中にあるので、集会中に虫が飛んできたりすると、子どもはすぐに気を取られてしまいます。中には虫が極端に苦手な子もいるので、虫が来るとちょっとしたパニック状態にもなってしまいます。ただ、そういうときは初めに注意しておくと、効果があります。「フーミンのお話を聞く前に一つだけ気を付けてほしいことがあります。今夜も虫が入ってくるかもしれません。けれど、虫はこちらが恐がったり、騒がしくすると遊んでもらえると思ってもっと近寄ってきます。だから、虫が来ても気にしないでね。そう、虫は無視!」こう言うと、子どもたちは最後まで集中して聞くことができました。

虫が来ても、初めの注意事項を思い出して、「虫は無視」を実践したからです。イエスさまも、弟子たちを宣教の旅に送り出すとき、まず神の権威を授け、持ち物は何も持たずに行くように明確な指示を与えられました。このことは、弟子たちが旅の間いつも思い出す教えになったはずです。


これまではずっとイエスさまが一緒でした。イエスさまについて行けばよかったのです。それが、ここから弟子たちだけで旅をするのです。しかも、ただの旅行ではなく、神の国を宣べ伝えるという責任重大なミッションです。

不安になることも、迷うことも、自信がなくなることもあるでしょう。しかし、そのときに思い出すのは、イエスさまが旅の最初に言われたこと。「わたしは十分な力をあなたに与えている。だから持ち物は何も持たずに行きなさい。わたしの言うことを信頼し、わたしだけに信頼しなさい」と言われたことを思い出すのです。


これは、私たちにも同じことだと言えますね。普段の生活でどのように福音を伝えるのか、また教会での奉仕にも通じます。「私には力不足だから」「もう少し準備ができてから」「ほかにもっとやれる人がいるから」と自己診断していると、いつまでたっても出発ができません。完璧でないから、準備万端ではないから、自信がないからと言っているうちは、人間何もできません。

そうではなく、ここでイエスさまが「それで行きなさい」と送り出した声に従って、私たちは進むべきです。自分ではなくイエスさまの判断によって私たちは自分を出発させたいと願います。


2. 遣わされる

次の指示は「どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい」(4節)でした。これはいったいどういうことでしょうか。もし、弟子たちを受け入れてくれる家があれば、そこにとどまり続け、待遇で滞在先を決めてはならないよ、ということですね。たとえば、食事の好みが合う、和室で落ち着く、エアコンが効いている、子どもがいないお家なので静か・・・といった条件で転々とすることは良いことではありません。それは、福音を知らない人に誤ったメッセージを伝えることになるからです。「あの人は、神の国について話しに来たと言っているけど、その行動を見ると自分の好みに合うことだけを選んでいるなあ。神さまってそのぐらいのものか」と思うかもしれません。それでは、神さまのすばらしさを伝えていることにはなりません。弟子たちは、イエスさまの言われるとおりにすることによって、この旅(彼らの人生)は居心地が良いか悪いかではなく、神の働きを果たしているかかが大事だと意識するようになります。イエスさまは弟子たちを呼び集め、そして遣わされます。遣いは、送り主から授かったミッションを果たすことが大事な役目です。

さらに、「人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい」(5節)と続けられました。足のちりを払い落とすのは、「もう、あなたと私とは関係がありません」という行為です。それほどまでに、福音には重大な役割があるということです。もし、あなたが福音を拒否するのであれば、もうあなたとは関係がないということだからです。これはすごく教えられます。たとえば、私がいくらAさんと良い関係であったとしても、そのAさんが福音を拒み続けるなら、その関係は終わりにしなさいということになるからです。弟子たちも、いくらそこが居心地がよい家、町であっても、彼らが福音を拒否するなら、もう関係がないとばかりに足のちりを払い落として次の町へ行かなければならないのです。


反対に、福音を伝えることなしに、良い関係でいることだけで満足するのも良くありません。福音を伝えられるようになるための良い関係作りは大切ですが、いつまでたっても福音を伝えることに躊躇を覚えるなら、その関係は福音最優先ではありません。これは寂しい生き方でしょうか。いいえ、私たちにとって最高の友はイエス・キリストです。イエスさまとの関係が最優先。なぜなら、イエスさまがまず私たちを愛してくださったからです。イエスさまだけが、何の条件もつけず、ありのままの自分を愛してくださったからです。

この方に会うまで、すべての人は真実の愛を体験することなく生きています。本当の愛を探し求めてさまようのです。「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら」(6節)旅をしました。「村から村へ」それは、福音を伝える喜びもあれば、福音を拒まれる悲しみにも遭遇しながら、弟子たちは宣教の旅をしたのですね。私たち福岡めぐみ教会も宣教において体験した喜怒哀楽を、たくさん分かち合える兄弟関係を築いて参りましょう。


3. 神さまに頼る

この続き7-9節には領主ヘロデのことが出てきます。彼は、イエスさまが登場する道備えをしたバプテスマのヨハネを捕え、首をはねた人物です。イエスさまの働きが広がり、人々がうわさする中、「イエスに会ってみたい」(9節)と思っていました。ただし、ヘロデは「会いたい」と思っていても、それは自分の興味本位のためでした(ルカ23:8「ヘロデは・・・イエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである」)。


なぜ、ヘロデのことが出て来るのでしょうか。それは、神さまが与えてくださるものをしっかりと見つめることができる人と、そうでない人の対比をルカは描いているからではないでしょうか。もう一度、本日の個所のイエスさまの命令を思い出してください。旅には何も持って行かないように、詳細に命じられました。

その意図は、「必要なものはちゃんと神さまが与えられる」からです。だから、神さまの権威を持って出て行けば、行った先で衣食住はちゃんと与えられる。ただし、えり好みせず導かれたところで過ごしなさいというものでした。


これは、逆に言うと、神さまは「足りないものを用意してくださる方」であるとも言えます。最初からすべて揃っていて、不安や心配がないような旅に送り出そうとはなさっていません。ちゃんと「足りないもの」がある旅になるようにされています。それはもっとも大切な神さまを知り、神さまに求めるためです。自分自身ではなく、神さまに頼るためです。自分の持てるものではなく、神さまに満ちたりるためです。そのために、他のものがあったら邪魔なのですね。求めるものがなければ、神に祈ることもしません。足らないものがなければ、信仰は成長しません。「あれがない」「これがない」「あれが足りない」「自分ではできない」と不安や心配に押しつぶされそうになったり、不平不満が出て来たりするときには、ぜひ、神さまを呼び求めましょう。私たちの信仰が成長するために、神さまがあえて不足を与えてくださっているのだからです。何かうまくいかない、心配がのしかかる時には、そこにこそ、神さまの深いお考えに基づいた計画があることを認めましょう。そして、私たちは宣教のために苦しみも喜びもともにしたいと願います。■


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