top of page

福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「良き知らせをあなたに」 

更新日:2022年9月21日


​聖書箇所:第一コリント人への手紙15章1-5節

Ⅰ.福音に立つ

1. 神から人へ

聖書全体の知らせを「福音」と言うことがあります。英語ではGospel/Good News(ゴスペル)です。新約聖書が書かれたギリシャ語から由来していて「ユウアンゲリオン(良い+知らせ・音信)」という言葉です。今朝の聖書箇所では何度も「福音」という言葉が出てきます。3節を見ると「最も大切なこととして伝えた」内容がこの15章のはじめにあります。ここから「福音」こそ聖書の最も大切なことだということが分かります。では「福音」が持つ内容とは何でしょうか。ごいっしょに見てまいりましょう。


2. 伝え、受け入れるもの

「福音」の内容の1つ目、それは「宣べ伝えられ・・・受け入れられる」ものだということです。1~2節で「福音」に関わる言葉を見ていくと「宣べ伝えた」「改めて知らせ」「受け入れ」「福音によって立っている」「伝えた」「しっかり覚え」「救われる」と見つけることができます。大切なのは「伝える」という点です。誰も「福音を考えた」とか「福音を思いついた」とは言いません。なぜなら「福音は神から出ている」からです。神から出た良き知らせ。実は、聖書自体が神の言葉、神の口から出た一つ一つのことば(参照マタイ4:4)です。それはこの世のどんな書物よりも確かだということです。神は約束を守られるお方であり、それを実行する力をお持ちのお方です。神はご自身の最善の計画をお持ちであり、それを成就されるお方です。もちろん、その権威も持っておられます。計画はあるけれどそれをどう実行したらよいのかわからない、という不完全なお方ではありません。そして、その神から出ていることばなので、信頼に足るのです。「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする」(詩篇19:7-10)とあるとおりです。


聖書は神から人へ告げられたことばであり、それゆえに良き知らせです。そして、神の民はこの神のことばを伝え、聞き、覚え、従うのです。「福音」に何かを付け足したり、何かを省いてもなりません。伝えられたそのままを伝える。宣べられ、宣言されたとおりに次の者も宣べ、宣言する。これが福音が福音として保たれる秘訣です。考えてみてください。もし、誰かが力強く「福音を伝えた」とします。次の者が自信なく、申し訳なさそうに伝えたとしたらどうでしょうか?「私はこの福音を聞きました。たぶん、真実かもしれません。もっと大切なこともあるかもしれません。それでもよかったら福音を聞いてくれませんか?」このように言われたら、誰も真剣には聞きませんよね。福音は伝えられたとおりに伝える。先週駅前でのチラシ配布に行きました。そこでオロオロしていたら、誰も受け取ってくれません。通行人から「それ、何のしらせですか?」と聞いてくれることはまずありません。こちらから一歩進んで行かなければ、こちらから初めの一声をかけなければ、何も起こりません。福音はその初めの一歩、初めの一声をかけてくれた者たちによって伝えられてきました。今、ここまで福音が届いています。それに人生をかけた人のバトンが渡されて、ここまで響いてきました。次は、私たちの番、そしてあなたの番です。宣べ伝えられた福音を「伝える」者に。伝える教会に。伝える私たち。伝えるあなたであるように。


それができるのは、受けたそのままを信じることです。聞いた福音をそのまま受け入れることです。受け取った福音に立ち続けることです。迷いがあれば、思い出してください。これが神から出た良き知らせであることを。これより確かで、大切なものは他にありません。神から出た良き知らせ。宣べ伝えられてきた福音。あなたが受け入れた福音。この福音の上にしっかりと立ち続け、この地に鳴り響かせてまいりましょう。


Ⅱ.死と葬り

1. 主語はキリスト

福音が伝えられ、伝えるものであることを見ました。次はいよいよその中身です。その第一は「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」です。福音の主語は「キリスト」です。これも福音が神から出ていることの発見になります。私たちの救いは、私たちが、あなたが、人間が何かをしなければ達成できないとは決して言いません。真の福音は「キリスト」から始まります。キリストが何をしてくださったのか。それを聞くこと、知ることが福音の初めです。


そして、そのキリストが「死なれた」ことが福音です。もっと正確に言うと「私たちの罪のために死なれた」です。さらに深掘りすると「聖書に書いてあるとおりに」そうなされました。聖書は神から出た良き知らせであり、そのご計画を示すものでもあります。その聖書が前々から「キリストは私たちの罪のために死なれる」ことを預言している、ということです。それは旧約聖書でたびたび記されている「傷のない雄牛、雄羊(全焼のささげ物、罪のきよめのささげ物、宥め)」は、このキリストを指し示していました。それはすべて私たちの罪の身代わりとしてのささげ物=犠牲です。牛、羊、鳩などがほふられたのは、私たちの罪を転嫁するためです。私たちはすべて罪人。そのままでは聖なる神の御前に出ることが許されない。それゆえ、人は自分の身代わりとしてのそなえ物をもって神の前に差し出し、その血によって、主は罪を赦されます。その究極のささげ物が、イエス・キリストなのです。神の御子であり、まことの人であるキリストが流された血によって、すべての人の罪は赦され、救いをいただき、神の御前に出て永遠に喜ぶことができる。それはこの世で獲得できるどんな宝物よりも尊いものであり、意味のあるものです。この犠牲は、あなたの救いのためにささげられました。罪があっては誰も救われることができません。その人のどんな努力、行い、積み重ね、お願いによっても神の聖なる基準、義には達しません。それで、福音は「キリストは」と始めて、その救いをもたらしてくださるのです。このことをまず、そのまま受け入れましょう。 2. 死と葬り

そして、「キリストは私たちの罪のために死なれた」に続いて、「また、葬られた」とつながります。一見、死と葬りは同じことの繰り返しのように思われます。しかし、あえてここで分けて2つのことに言及している、伝えていることが大事です。「死んで・・・葬られた」ことによって、キリストが死なれたことを「確実にして」います。死にとどめを刺すように、葬られ=墓に納められ、死者となられた。キリストが葬られ、死んだ者となったことは、私たちの罪が完全に清算されたということを教えています。何のローン、支払いもないことは私たちにとって良き知らせです。


毎週、礼拝で告白しています使徒信条を思い出してください。「死にて、葬られ」と教会はこの告白を大事にしてきました。昔も、今も口に出して告白し、信じ、伝えられてきました。私たちの罪は、過去の罪、現在の罪、これから犯す罪のすべての罪責は「キリストが死んで葬られた」ことで背負ってくださっています。


私たちが毎週、ごいっしょに口に出すことは習慣となります。そして習慣は受肉して、自然に身に付いていきま。すべての罪を背負ってくださったキリストを覚え続けましょう。その確信をあなたの身体に、心に、信仰に取り込んでいくのです。


Ⅲ.よみがえられた

1. 死と葬りの向こう側

さて、福音の大切なことの最後は「よみがえられた」です。キリストが死なれ、葬られたことで終わったのでは、救いがありません。それで、次にある「よみがえられた」という言葉が大切です。人には罪があり、その身代わりとしてキリストが死んだ。それだけでは不十分、まさに救いがありません。しかし、「よみがえられた」ことで死と葬りのすべてを呑み込んでしまっているのです!


キリストが「よみがえられた」ことは「死んで終わりではない」ことを確かにするもの。この世は死んで終わりではない。キリストは永遠のいのちの扉を開いてくださいました。ここに救いがあります。死の向こう側に勝利がある。死の向こう側に永遠のいのちへの入り口がある。それを確信させるものがこの「死んで、葬られ、よみがえられた」の一連の流れで告白しています。これも「聖書に書いてあるとおりに」とありますから、すべて神の計画の中でなされたみわざです。主イエスも、弟子たちにことあるごとに「多くの苦しみを受け、十字架で殺され、三日目によみがえらなければならない」(マタイ16:21、20:18-19、マルコ10:33-34)と示し続けられました。十字架の死とよみがえりは常にセットで教えられています。それは、すべての罪の返済と死に対する完全な勝利だからです。


2. 今も続くよみがえり

最後に、この「よみがえられた」について、さらに学べることがあります。これは文法的には「よみがえりの事実が今も続いている」(完了形)という意味が汲み出せます。よみがえりはその出来事の作用が今も続いているとは、ずっとよみがえり続けているということでしょうか?あるいは何度も何度もドラキュラのように起き上がっているということでしょうか?


いいえ、そうではなく、キリストは今も生きておられる!ということです。私たちの罪のために死んで、葬られたキリストは、三日目によみがえられた。そして、そのよみがえりのキリストが今も生きておられるという宣言です。しかも、これは神の言葉なので、そのままそれが事実となります。キリストは生きている。今、生きておられる方の言葉です。今、生きておられる方の言葉を聞いています。今、生きておられる方が「信じなさい」と招いておられます。今、生きておられる方が「あなたの罪は全部背負った。わたしがすべて背負って償った。あなたのすべての罪は取り除かれた。」と宣言しておられます。空の墓はそのしるしです。


よみがえりのキリスト。今も生きておられるキリストを信じましょう。この方を受け入れ、信じ、この福音の上に立ち続け、聞いた福音を伝えていく。これが私たちの使命であり、あなたのいのちが最大限に用いられる道です。福岡めぐみ教会はこの福音の上に立ち続けます。そして、この福音を宣べ伝えます。


「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネの福音書11章25節)


閲覧数:16回0件のコメント

最新記事

すべて表示

「整えられた道を」

はじめに 本日から新たな聖書箇所でシリーズが始まります。これからしばらくの間、主の日の礼拝ではルカの福音書からみことばを聞いてまいりましょう。1-2章はクリスマスの出来事が記されており、昨年の12月アドベントで開きましたので、3章からスタートいたします。 ルカの福音書の著者はルカとされています。この福音書自体にルカが著者であるとは書かれていませんが、使徒の働き28:14の「私たち」や、またパウロの

「失望に終わらない希望」

はじめに 本日はイースター礼拝です。 ご存じのように、私たちの教会の屋根には十字架が掲げられています。どんな十字架でしょうか?夜になると赤い光を放ちます。そして、イエス・キリストがはりつけにされていない十字架です。伝統的なカトリック教会や聖公会などでは、十字架とはりつけになったイエス・キリストが掲げられています。 これらのことから、それぞれに強調点の違いがあることが分かります。イエス・キリストがは

「主を恐れる礼拝者」

はじめに 1月からの礼拝/賛美シリーズも本日で10回目。次週は受難週、その次はイースターとなりますので、礼拝/賛美シリーズは今朝で一区切りとなります。 毎回はじめに確認しているように、私たちは主の日も平日も、会堂でも家でも、集会でも普段でも、礼拝の生活をしてまいります。この礼拝式はそのスタートとなるものです。ここから、私たちは福音の素晴らしさを携えて飛び出していくようなイメージです。 そして、その

bottom of page